磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義

■磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

庭と建築の関係、庭そのものの意味を考えたく拝読。
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現代では実用的で遊ぶものの印象が強い庭。
それはそれでありだけど、そもそもの庭は、宗教や信仰の表現として生れたものだと。
そして、建築のようにテクノロジーとともに様式が変化していった訳ではないというのが面白いと。
水、石、木、土と自然のものを使ってどう表現するのかだから。
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庭というのは、救いの庭と、存在論の庭の二つで、この二つが極限じゃないかと。
浄土宗の庭は、存在する自分を救ってほしい、救済のための庭ではないかと。
(奈良時代の仏教は基本的に国をつくるためのもの、平安時代になると個人救済の仏教、極楽浄土のイメージ)
また、夢窓疎石が石と直面してやっていたのは、存在することの問いではないかと。
(自然の石は寝ていてただそこにあるだけだけど、それを立て起すというと明確に「存在」を表現しようとしている)
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最後に、「庭は末期の目で見るべし」という言葉が江戸時代にあって、それが庭の本質だと。
庭が本当にわかったり必要になるのは、死の直前。末期の目でみないとわからない。
今見ている庭は、現世とあの世をつなぐものではないかと。なるほど。
(たとえば、内の部屋は鬱陶しくなる雰囲気であり、逆に外の庭は上空へ抜けていくような気持ちよい雰囲気だったりするのはそういう訳ね)
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