フラジャイル 弱さからの出発

■フラジャイル 弱さからの出発
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著者は「弱さ」に惹かれている。「弱さ」とは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものだと。
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われわれヒトは「弱さ」に近い。ヒトザルがヒトになったとき、なぜだか動物界で「最も弱い存在」をめざしてしまった。鋭い牙や堅い爪をあえて弱くし、走力や跳力を劣化させ、頑丈な剛毛と分厚い毛皮を脱ぎしてた。視力も聴力も弱くした。ただ、弱々しい動物になるかわりにどんな動物よりも肥大することになった大脳の機能に期待してのことだった。この進化戦略は、大当たりした。
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われわれはなぜ「弱さ」を無視したり軽視したりするようになってしまったのだろうか。強い者を優秀な者とみなし、弱い者を劣等な者とみなす社会的な意識はあきらかにつくられたものだ。このような判断は生物界にはありえない。われわれはいつかどこかで「強さ」の神話を刷り込まれすぎた。「強さ」の神話づくりは古代だけではなく、近代にいたっても、現代にいたっても、なお再生産され、工夫されつづける根深い問題。とくに近代にいたっては“科学”や“学問”の衣裳をまとっていたために、すっかり「強さ」にあこがれることになり、ついには弱者や最弱者の立場にたつ視点を失ってしまった。
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だからといって、「弱音を吐くこと」をすすめたかったわけではない。「弱音を聞くこと」を重視したいのだ。たんに少数者の意見を重視するということではない。むしろ事柄や現象の量の大小にかかわらず、「僅かな変化」に注目するということである。そうすることは、おそらく多元性や多様性をうけいれる最も有効な方法であるとおもわれる。ただしそのためには、われわれの思考が意外なほどに非線形(ノンリニア)な表現をとりうることを大胆に公表していかねばならない(社会は連続と全体を好み、中断と部分を許さない。継続していること、持続力があること、一貫していること、全体的であることだけが、世間が期待しているので)。
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#フラジャイル #松岡正剛